あだ名禁止、さん付けを強制って?学校はプチ独裁国家になったのか?
昨今話題になっている「あだ名禁止、さん付け強制問題」について気になったので書きます。
「禁止」、「強制」という言葉を聞いただけでゾッとします。
それらは僕にとっては全く不愉快な言葉です。
*そもそもだれがそれを決めているのか?
<NHKNEWS WEB>より引用します。
文部科学省 担当者
「『あだ名を禁止する』などと国から一律に方針や通知を出すことは特段していません。
学校の中には、校則の1つとしてあだ名を禁止しているところがあるかもしれませんが、
校則は各学校長に決める権限があり、それぞれに判断してもらっています」
国でなくて少し安心しました。
こんなことを国が決めたらもっと大騒ぎになっているのでしょう。
引用文から解釈すれば決めたのは国でなく各学校単位の校長ということになりますね。
まあ、現実には校長が発案して独りで決めるわけではないのでしょうが、
最終決定権は校長にあるということです。
だとすれば見識を疑わざるを得ません。
実際にはまだ運用している小学校は少ないと思いますが
僕は驚いています。
これを決めて実施しているある小学校の校長がTVで答えていました。
「いじめが1件も発生していない」
発生していないのではなく知らないだけなんじゃないかと思うのは
僕だけでしょうか。
*「あだ名禁止」でいじめ問題が解決するならラクな話
いじめ問題は長いこと論じられています。
論じられても簡単に解決するというような問題ではなさそうです。
子供が自殺するような大事件が起きてから、
当校にそんな問題はなかった、知らなかった、ない、などとうそぶく校長がいます。
過去に何度か報道で目にしました。そのあとで謝罪したりしていました。
問題を「禁止」だけで片付けるのは臭いものに蓋をするのに近い気がしています。
「禁止」という言葉でビクッとするのは、上から目線的威圧感だけではなく
物事をイージーに片付けようとする態度にも嫌悪を覚えるのです。
*物事は多面的であり、それに対する様々な考えがあって当然
「禁止」とはある一つの考えを一方的に強制することです。
例えば「殺人禁止」とは、当たり前で論をまたないことだと思います。
子供が「なぜ人を殺してはいけないの?」と聞いてくることがありませんか?
すべてのことに理由があると決めつける考え方は如何なものか?
これの答えは「ダメなものはダメ」です。
しかしそういうのは僕であって「世の中には人を殺しても良い」という人もいます。
実際オウム真理教はそうでしたよね(今はどうかわからないし、
わかろうとも思わないので過去形)。
ここで恥ずかしながら僕自身の卑近な例を書きます。
元妻との夫婦喧嘩のひとコマ。
僕は「人の前でするな!」と激怒しました。
一緒に住むようになってから知った、元妻の考えられない行為に腹が立ったのです。
妻の反論は涼しい顔で「そんなこと気にしないでいられるのが夫婦だし家庭でしょ。」
これには口あんぐり。
喧嘩の最中は全く理解のカケラも見いだせずでしたが冷静になってみると
これは「ダメなものはダメ」系の問題ではないな、と思ったのです。
彼女はそういう家庭で育ったし僕は「禁止令」の中で育ちました。
おならです。
議論しても平行線です。が、この場合「禁止」は相手にとって納得のいかない権力の行使です。
「解禁」に決めてもこちらが不快な思いをする、どちらにしても平和ではありません。
これが原因で離婚したわけではありませんが改めて
「他人だったんだ」と思い入りました。
この話を知人などにすると、
意外にも女性に容認派が多いのにまたまたびっくりです。
「おなら問題」をどう解決したかは長くなるのでやめます。
海外には食事で箸もナイフ・フォークも使わない、
素手で食べる習慣の国があります。
そういう国の人と一緒に食事したことはありませんが、
それを相手に禁ずることはできません。
たぶん目の前でそれをやられたら慣れるまでは食事の味が変わることでしょう。
*あだ名はいじめの武器のひとつでも、全てではない
いじめの構造は単純でなく深くまた複雑です。
悪意のあるあだ名はいじめの中で意図的に使われますが、
それはいじめ全体の一部にすぎません。
しょこたん(中川翔子さん)が体調不良のときに嘔吐したことから
「ゲロマシーン」というあだ名で呼ばれて悩んだり、
身体的な特徴からつくられたあだ名で呼ばれて苦しむというのは
あきらかに悪意のこもったものです。
いじめの場面に登場する悪意あるあだ名を軽く考えているのではなく、
いじめの実態はもっと多様で根が深いということを言いたいのです。
つまりあだ名を禁止してもいじめはなくならないのです。
いじめは子供だけでなく大人社会にもあります。
教師間で発生したいじめ事件もありましたよね。
*法律がなくなったら理想社会
おひとり様から二人以上の集団になるとトラブルが発生するようになります。
その時にできるのが決まり事やルールであり、それが国家単位になると法律です。
世界となると国際法です。
法律は国民すべてが賛同しようがしまいが守らねばなりません。
法律のない世界。
それで皆が幸福な世界。
現実には、いまだに戦争している人類様には無理な話でしょうが
それはひとつの理想郷なのでしょう。
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